世田谷草野球ロスヒターノス・ブログ

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打撃投手一代!話は変わって明治時代

 肩を故障してから投げられない日々が続き、ベンチから眺めている試合に何とも言えない歯がゆさを感じていました。

ボールを持った手が肩上を通過するとはしる激痛からボールが投げられない日々はボクから野球を奪っていきました。


しかし今年に入り少しずつではありますが、マウンドへ上がる機会が出てきました。

まだ全力投球では痛みを覚えるもののスピードガンの球速で言えば105キロ前後までは痛みもなく投げれるようになりました。


そんな訳で今日からある中学校(←母校ではありません!w)で試合のない土・日・祝日はバッティングピッチャーをやらせてもらうことになりました。


初日となった今日は、8割強はストライクにボールを投げることができましたが、やはりマウンドから離れていた期間が長かったこともあり、ボール半個分のコントロールの調整は難しくなっていました。

今の状態だったら1イニングに何点取られるかはわかりません!

草野球とは言え、マウンドに上がるからには万全の状態で上がりたいし、1試合に3点も4点も5点も毎度のようにとられるようでは、まだまだマウンドに上がる資格すらないと思いますし、自分よりも若い投手もたくさんいるので彼らに負けない内容の投球内容が出来るようになったら先発のマウンドに上がりたいですね!


 話は変わりますが先日、古本屋で明治29年に発行された『ベースボール術』(高橋慶太郎著)という本を見つけたので買ってしまいました!


本書は我が国で最初の野球に関する単行本であり、その内容には以前から非常に興味を持っていました。


A6サイズ(←A4サイズの4つ折りのサイズ)で50ページ程度のページ数なので1時間もあれば読み終わってしまう内容でしたが、当時の野球事情を知る上で貴重な資料といえます。


特に『遊戯者之姿製』は当時の野球する姿を描いている非常に珍しい資料です。

なにせ投手が長方形の枠の中から投球しているのですから。


本書が発行された明治29年には既にアメリカではピッチャーズ・プレート(投手板)はルールに明記されているものの、本場米国でのルール改正で明記された明治26年(1893年)だったこともあり、本書内ではまだ野球初期(19世紀)の名残である投手BOXが存在していました。


現代と違い瞬時に世界中の情報が行き交う時代ではないので野球のルールもまたアメリカから遅れて日本に伝来してきていました。その時差は大凡2〜3年程度だったようです。


私が明治野球に魅かれるきっかけともなった大和球士氏の著書『真説日本野球史明治編』によると現在でいる四球(←昔はもちろんこの名称はありませんし、4球出塁になるまで何度もルール改正がありました)の球数のルール改正の年数を比較すると、9球出塁だったものが6球出塁になったのが、アメリカでは明治17年、日本では明治19年。5球出塁になったのがアメリカでは明治20年、日本では明治22年。そして現在の4球出塁(四球)になったのがアメリカでは明治22年、日本では明治24年でした。


その点からもアメリカで明治26年に改正されたルールが明治29年に発行された本書の中で採用されていないのも時代背景を考えれば納得できますし、なんとも興味深く感じます。

 

当時はバッターズボックス(打席)があったのと同じように、投手にも投球する為のピッチャーズボックスがありました。マウンド的な位置づけというよりは、そのピッチャーズボックス内から投球をしなければならず、ボックス外から投球するとボークになることからマウンドというよりは現在でいうピッチャーズ・プレート(投手版)と同じような扱いだったのではないかと察することができます。


野球をやられている方はピッチャーズボックスに関して非常に興味を持たれるかと思います。そのピッチャーズボックスを使った投球の様子も本書挿絵の『遊戯者之姿製』に描かれています。





ちなみに現在でいうストライクも当時は『フェアボール』(←ボールは当時もボール)と呼ばれていています。当時の「ストライク」とは投手が投じたストライクゾーンを通過するボールを打者が打たなかった時のこと。

そうなると現在でいう「フェア」や「ファウルボール」はどのように表現されているのでしょう?

「フェア」は『フェアヒット』、「ファウルボール」は『ファウルヒット』と呼ばれていました。

 もちろん当時の用語や簡単な戦術、用具を知る上で非常に貴重な資料と言えますが、勝負表(←おそらく現在でいう簡易スコアブック)では明治29年6月5日の一高野球部と横濱外人(←本書ではそう書かれているが横浜在留アメリカ人チームのこと)の試合の記録が掲載されています。これもまた非常に貴重な試合の記録で実はこの前月5月23日3時から同カードの試合が行われています。その試合こそ日本野球史上残る最初の国際試合なのです。



試合結果は29対4で一高野球部の勝利。


そしてこの6月5日の試合は日本野球史上2度目の国際試合だったのです。それも前回5月23日の試合は教師のアメリカ人メーソンが仲介をして試合を日本側から申し込んだものでしたが、この試合はアメリカ人チームからの申し込みによって組まれた試合だったのです。



相手チームは停泊中の軍艦から6人の精鋭を加えての試合に挑みましたが、前戦と同じく一高エースの青井鉞男(1959年野球殿堂入)に抑えられ、32対9で一高が返り討ちにしたのです。



そんな試合の勝負表を見れるのは当時ならでは!なんせ本書発行の約1カ月前といったことを考えれば当時としては最新情報だったのですから!



以前にも明治期の野球書については書いてきましたが、当時の野球に関する文献は大正期・昭和期と比べても圧倒的に少ないだけに実際に読んでみると興味深いところが非常に多いものです!

 

もちろん野球殿堂博物館国会図書館等で『ベースボール術』を含め当時の野球書を閲覧することが可能です!



是非興味のある方は足を運んで読んでみてはいかがでしょうか