世田谷草野球ロスヒターノス・ブログ

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日系人大リーガーのパイオニア、ライアン・クロサキとレン・サカタ

連日、日米野球が行われ野球ファンにとっては夢のような時間がながれている。

1964年に日本人初のメジャーリーガーとなったのが当時、南海ホークスから野球留学でサンフランシスコジャイアンツ傘下A級に派遣されていた村上雅則投手だった。

8月31日に突如メジャーリーグ昇格を言い渡され、翌日9月1日のニューヨーク・メッツ戦に登板。
これが日本人初のメジャーリーガー誕生の瞬間であった。


翌1965年もサンフランシスコ・ジャイアンツでプレーすることになったが、この年の残留は当初野球留学という名目で派遣した南海ホークスと、その実力から村上雅則本人と契約を締結したサンフランシスコ・ジャイアンツの両球団の間で保有権争いが発生し、MLBのコミッショナーはサンフランシスコ・ジャイアンツ側の保有権を支持。




それから30年間、日本人メジャーリーガーは誕生することはなかったが、1970年代以降は日系人メジャーリーガーも誕生し始めた。
今年2014年のワールドシリーズでも、サンフランシスコ・ジャイアンツにトラビス・イシカワという日系人選手が出場していた。
日本では2012年のメジャーリーグ開幕戦日本開催で来日したカート・スズキが有名だ。


その日系人メジャーリーガーのパイオニアとも言えるのが1970年にハワイ州選手権優勝したカラニ高校のライアン・クロサキとレン・サカタの2人だろう。
1974年にネブラスカ大学を卒業したライアン・クロサキはセントルイス・カージナルスと契約しプロ野球選手の道を歩み始めた。
1年目はマイナーリーグでのプレーが続いたが、2年目の1975年にメジャーリーグに昇格、5月20日のサンディエゴ・パドレス戦に登板し、日系人初のメジャーリーガーとなった。これは日系のみならずアジア系アメリカ人初のメジャーリーガーという快挙であった。
6月16日にマイナーリーグに降格。その後はマイナーリーグ生活が続き、メジャーリーグに戻ることなく1980年に現役を引退した。
メジャーリーグ実働は1975年の1年間のみで、7試合に登板し勝敗もつかなかった。



ライアン・クロサキのサインとベースボールカード


クロサキから遅れること1年、高校時代の同級生だったレン・サカタは1975年ドラフト会議でミルウォーキー・ブルワーズから1巡目位指名(全体10位)を受け、メジャーリーグの世界へ。
2年後の1977年7月21日にライアン・クロサキに続く日系人2人目のメジャーリーガーとしてデビューを果たした。

レン・サカタはクロサキとは対照的にメジャーリーグでの生活を長く過ごした。
1980年代前半のボルティモア・オリオールズを語る上で欠かすことのできない選手となり、1983年にはワールドシリーズ優勝も経験。
1987年の引退後も、マイナーリーグでの監督、そして1995年に千葉ロッテマリーンズの二軍監督に就任し同年監督に就任したボビー・バレンタインのサポート役として活躍した。バレンタイン監督帰国後も1998年まで千葉ロッテマリーンズのコーチとして在籍。
2008年には再びバレンタイン監督率いる千葉ロッテマリーンズの二軍監督に復帰した。
2014年現在も現役の指導者としてアメリカ球界で活躍している。





今年12月20日公開予定のカナダのバンクーバー朝日を題材にした映画「バンクーバーの朝日」。
意外と知られていない日系人野球だが、ブラジルを筆頭に世界の野球史に日系人の活躍は欠かすことはできない。
その日系人初のメジャーリーガー・ライアン・クロサキ、そしてレン・サカタの功績がもう少し讃えられてもいいのではないかと最近思う。


そうそう、そういえばメジャーリーグでは伝説の日系人用具係がいた。
日系二世のヨシ・カワノ氏は1943年からリグレー・フィールドで働き始め、2008年開幕直後に引退した。
65年間、カブスの本拠地リグレー・フィールドで用具係として働いたカワノ氏の帽子は、野球殿堂入りしているのだ。
現在83歳のMr.カブス、アーニー・バンクスのデビューが1953年、「ビリー・ゴートの呪い(山羊(ヤギ)の呪い)」は1945年、そして1998年のサミー・ソーサのホームランレース、2003年のリーグチャンピオンシップでのスティーブ・バートマン事件、すべてが彼のいた65年間の出来事なのだ。