サインをお願いすると【逆転サヨナラホームラン2本】とスペースがゆるすのであれば書いてくださるのが唯一逆転サヨナラホームラン2本を記録した広野功氏だ。
慶應大学野球部時代に長嶋茂雄の東京六大学ホームラン記録に並ぶ通算8本塁打を放ち、記念すべき第1回ドラフト会議で中日入りした。
このドラフトで巨人軍から1位指名されたのがのちのV9のエース悪太郎こと堀内恒夫投手だ。
広野は大卒1年目、堀内は高卒1年目だった訳だが、堀内と広野の対決はプロ野球史に残る名勝負だったが、他の名勝負と比べるとあまり知られていない。
この年の主役は間違いなく堀内恒夫だった。開幕から13連勝、シーズン終われば16勝2敗 防御率1.39で最優秀防御率・最高勝率・沢村賞・新人王のタイトルを獲得する大活躍だった。
5月30日から6月22日サンケイ戦で44回連続無失点を記録する。その失点も先頭打者こそ四球で出すが王貞治がバント処理で悪送球、さらに三塁ランナーに気を取られた二塁手・須藤豊がエラーし無失点記録は途絶える。
さて広野が初めて堀内と対戦したのは7月2日、4打席無安打で最後の打者となり連続勝利記録8勝目を献上する。
その雪辱を果たすべく広野は再びくる堀内との対戦にむけて備えていた。
広野には来る堀内との対決にむけて【堀内用バット】を用意していた。何本もあるバットの中で5g軽く弾きバットだったのだ。
1966年8月2日、その日はやってきた。
この日の巨人の先発は城之内、ローテーション的には堀内は投げてこないはずだった。
しかしこの試合9回2死まで打ち取ってきた城之内があと1アウトという場面で急に崩れる。ブルペンには堀内が投球練習を始める。
2死満塁になった場面で巨人は城之内を下げ堀内をマウンドへ。
打席に向かう広野はすぐさまロッカーへ走り【堀内用バット】を持ってきて打席に入る。
ストレートに絞っていた広野、1球目ストレートを振ったがファウル。
2球目に入る前に堀内はボールが気に食わず3球ボール交換をする。
2球目はボール、3球目は100%ストレートと読んだ広野の打球はセンターへの大飛球。
広野にとって1本目の逆転サヨナラホームラン、そして堀内恒夫にとっての2敗目はプロで初めて打ち負かされた敗戦だった。
広野の執念が球史に残る一打を放たせた!
野球殿堂博物館にはいつのひかこの伝説の5g軽い【堀内用バット】が展示されている。
是非、訪れた時には見ていただきたい。
話はここで終わらない。
1968年に西鉄ライオンズに移籍となった広野は1971年に堀内恒夫のいる読売巨人軍へ移籍する。
移籍後の1971年5月20日のヤクルト戦で代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放つ。
自身2度目の【逆転サヨナラ満塁ホームラン】であり、後にも先にも【逆転サヨナラ満塁ホームラン】を2本記録した選手は広野功ひとりである。