野茂英雄投手が野球殿堂入りを果たした。
19年前の5月2日、前年から続くストライキの影響もあって開幕の遅れたメジャーリーグに現れた日本人投手。
26歳の若者が世間の大バッシングを浴びながら、メジャーリーグの扉をこじ開けたこの日。
日本の野球にとって、この日が到達点ではなく、この日がスタートラインだったことは19年経った今となっては明白だ。
田中将大投手やダルビッシュ有投手のアメリカでの活躍も野茂英雄があの日あの時にメジャーリーグでデビューしていなければなかったかもしれない。
今日のブログでは野茂英雄がベネズエラのウィンターリーグに参戦すると発表した2007年10月25日のブログを再度掲載しようと思う。
『2007-10-25 12年前…野茂英雄は黒船だったのか?』より
実は10月初旬に野茂英雄投手が自らのブログでビデオメッセージを発表!
昨年途中からどこにも所属しておらず引退なのかという思いもあり、ビデオメッセージ発表直後に早速拝見!
ベネズエラでウインターリーグに参加するという内容だった!!
ウインターリーグは、毎年日本球界キャンプイン後に毎年必ずといっていいほどこのリーグの名前がニュースに登場する。
ウインターリーグでは、各国のプロ選手にメジャーリーガーや日本球界に所属する中南米選手を含め、多くの実力者が参加し国内1位チームが2月の各国対抗戦カリビアンシリーズに出場する。
プロ野球ニュースを昔から見ている人なら記憶にあると思うが、元巨人軍の水野雄大投手がメジャーリーグを目指すというプロ野球ニュースの企画でドミニカのウインターリーグに参加したこともある。
実力はAAA以上と言われるほどレベルが高く、翌年への調整で参加するカブレラ(西武)のような選手もいれば、多くのスカウトが視察にきていることから来季の契約を勝ち取るために参加している選手も多い。
さて今回、ウインターリーグ参戦を表明した野茂英雄だが、「資料室」(←ガラクタだらけの私の自室!)で、約12年ぶりに野茂英雄の経緯を調べるため、週刊ベースボールのバックナンバーを振り返ってみた!
90年から93年まで新人以来、4年連続最多勝・最多奪三振を獲得してきた野茂は94年、両タイトルを逃したばかりでなく規定投球回数にも到達しなかった。94年2月のキャンプでローテータカフの筋肉の緩みからくる肩の違和感を訴え、例年より調整が遅れていた。この違和感だが、ロッテから巨人に移籍したエリック・ヒルマン投手が2年間肩の違和感を理由に高額年俸にも関わらず全く登板しなかったことから、「サボリ」と似たような非常に悪い印象を与えがちだが、実際草野球で登板を続けてきたボク自身もこの違和感に悩まされているが当事者にとってはケガ以上に怖いのがこの違和感と言える。この違和感の中、投げ続けた野茂は7月に「右肩関節包炎症」の為、初の二軍落ち。当時の中森チーフトレーナーは「使い痛み」という言葉を使い、4年間フル回転で活躍した野茂の肩がパンクした訳だ。94年後半戦は二軍落ちから始まった。後半戦に入り近鉄バファローズは球団史上初の13連勝をあげるなど、野茂のいない中快進撃を続けた。リハビリ明けの8月24日の西武ライオンズ戦で先発登板もこの日の最高速130Km、3回に右肩痛で降板。3回を投げ打者15人に対し、3安打3四死球2奪三振1失点。これが野茂英雄、後半戦唯一の登板であり、日本最後の登板となった。
そこから3ヶ月間かけて野茂は肉体改造を行い3か月で10Kgの減量に成功。
オフシーズンに入ると選手にとっては契約更改交渉の時期がやってくる。
実は93年オフに近鉄・前田球団社長に「キミ(野茂)のことはエースとして扱っていない」と厳しい一言が言われていただけに、この年8勝7敗で後半戦はわずか1試合の登板しかない野茂にとっては厳しい契約更改が予想された。
しかし、中森チーフトレーナーの「使い痛み」というところからも、野茂の右肩痛は4年間の酷使による公傷であり現状維持(推定1億4000万円)というのが野茂の狙いだったと言われている。
それに対し、近鉄・前田球団社長は野茂の年俸の見解は「野茂の年俸(推定1億4000万円)なら、15、16勝で負けがひとケタ。これで他の選手とちょうどくらい」。
この年2度の契約交渉を行った野茂は判を押すことなく越年。第1回目の交渉では野茂サイドから複数年契約を要求されたが球団サイドは受け入れず、保留。第2回目の契約交渉では球団サイドは推定1億3000万円を提示したものの再び保留。
この2度目の契約交渉後、野茂の記者会見から野茂の周りが騒がしくなることとなった。
「サインしていません。複数年以外の要求も出しましたが、内容は今は言えません。ノーコメントにしてください。」
翌朝から「大リーグ」「代理人」などそれまで球界ではタブー視されてきた単語が世間をにぎわした。
12月27日にはコミッショナー・パリーグ連盟サイドから野茂が1回目の交渉で任意引退同意書にサインしたという怪情報まで流れ始めるものの球団サイドは否定。「野茂が任意引退同意書にサイン=野茂は引退する」これが日本球界のそれまでの常識だった。
しかし、あるスポーツ紙が「野茂が任意引退同意書にサイン=野茂は大リーグへの挑戦が可能になる」という記事を報道。
野茂のブレーン役は当時このように報道されている。
【今は代理人としてアメリカ球界で大物を何人か抱えている人物で、かつて日本球界でもプレーしたこともあり、血のつながりはないが父親が球界の大物】
団野村(ダン野村)。野茂をはじめ伊良部やマック鈴木の代理人を務めている野村克也監督の息子(サッチーと前夫の息子)である。
当時の任意引退の場合は旧所属球団の同意がなければ他球団でプレーができないが、その拘束力は日本球界にのみ効果を発する。
野茂のメジャー流出を阻止したい近鉄サイドは「コミッショナーが決めてくれるはず」と恐らく「空白の1日」の時のような超法規的な解決を期待していたのだろう。
95年1月9日、野茂は記者会見で、大リーグ挑戦の意思を示し、近鉄・上山オーナーは野茂の大リーグ挑戦を了承。
しかし、ココで一件落着とはいかなかったのは、それだけ野茂英雄の大リーグ挑戦というのがこの数十年間、日本の誰もが歩いたことのない険しい獣道であることをあらわしている。
当時の状況を考えると、メジャーリーグは94年シーズン途中からストライキに突入しており、95年シーズンの開幕すら決まっていない状況だったことから様々な問題があった。
まず就労ビザの問題ではメジャーリーグがストライキ中には外国籍選手にはビザが発給されないという問題が浮上。しかし、幸いマイナーリーグがストライキに入っていなかったことから、マイナーリーグでプレイするならビザ発給に問題ないなど解決方法は多く存在していた。
またトルネード投法はボークになるのではないのか?など…
実際、当時の週刊ベースボールを見返していても書いていないが、野茂英雄はわがままを通した完全な悪役となっていた。
95年3月2日、野茂はドジャータウン入り。日本からの異常なマスコミ攻勢に野茂は「4日に1度共同記者会見開催。それ以外は一切しゃべらない」と発表。ジョーブ博士がスロー調整を指示した時は、開幕絶望と報道されたりあまりイイ情報は日本に流れてこなかった。
95年4月25日、8か月間のストライキが明け95年度のメジャーリーグは開幕。
オープン戦を3試合に登板し11回を5安打2失点で終えた野茂に対しクレアGMは27日A級の試合で登板後、5月2日のジャイアンツ戦で先発させる意向であると発表。
そして95年5月2日キャンドルスティックパーク、野茂は約30年ぶりに日本人としてメジャーのマウンドに立った。
初球・2球目はストレートのボール。3球目・4球目もストレートでストライクを奪い、2−2からの5球目。
フォークボールを打者は見逃すもストライクの判定で見事最初の打者からメジャー1つ目の三振を奪う。5回を投げて91球1安打無失点7奪三振の好投。
四球の多さから「ドクターB」と呼ばれることもあったが、6月2日にドジャースタジアムでメジャー初勝利を挙げるとそこから6登板連続勝利。(6月は初勝利を含む6登板6勝0敗防御率は0.89)
この年のオールスターゲームでは、ファン投票のない投手部門で見事選出され、オールスターの先発という重責を担う。アメリカのドクターK・ランディジョンソンとの投げ合いなど、95年は日米ともに「NOMOフィーバー」だった。
1年目のシーズン成績は、13勝6敗、防御率2.54(ナリーグ2位)、236奪三振(ナリーグ1位)、被打率.182(大リーグ歴代9位)、シーズン奪三振率11.10(大リーグ歴代5位),3完封(マダックスと並びナリーグ1位)・・・・・
スタッツを見てみれば、野茂はマダックスやグラビン、マルティネス、スモルツらより上位に名前があり、野茂は「NOMO」になったことは一目瞭然。
今から12年前の「NOMO」は、既に日米球界にとって「遺産」なのだろうか?野茂は自ら夢への扉をこじ開けたが果たして日米球界は変わったのだろうか?今回、94年〜95年の週刊ベースボールのバックナンバーを漁って、資料収集したが同時に『ドジャース95シーズン総集編』(ベースボールマガジン社)も読み返してみた。
シーズン前に多かった野茂への辛口評論はほとんどなく、周囲の雑音すら野茂が実力でかき消したのがわかったのだがひとつ気になる記事があった。
「アラン・テレム氏による抜け道」という記事だ。
テレム氏の名前を聞いたことある人も多いだろう。松井秀喜・井川慶・松井稼頭央と契約している辣腕代理人だ。
彼は95年当時の雑誌で桑田(元パイレーツ)・伊良部(元ヤンキース)・長谷川(元マリナーズ)は十分な力量を持っているといっている。
それだけではない。日本のフリーエージェントは10年待たなければならないので、彼らも野茂がやったように引退してしまえばメジャーリーグに来られるかもしれない。これが、アラン・テレム氏によって見出されたメジャー移籍への「抜け道」なのだ。
テレム氏はこの「抜け道」に対して2つの際どい要素を挙げている。
まず1つ目は日本球界は日本人が日本球界を抜け出すこと(国外でプレーすること)が合法的であること。
2つ目は、日本のコミッショナーは野茂のアメリカ移籍を防ごうとしたけれども、それを阻止することは出来なかったこと。
またジム・ラフィーバーはこう言っている。
「メジャーがついにジャッキー・ロビンソンに門戸を開放した後のニグロ・リーグみたいに日本球界はなるかもしれない。」
確かに今では当時と比べれば、日米間での野球法整備が進んでいることは事実だ。
野茂の挑戦で門戸が開かれたということは、日本球界から「出る」ことも出来るようになったが、日本球界に「入る」ことも容易になったということだろう。ただ日本には外国人枠の存在など外国籍選手が活躍する土壌が出来上がっていないのも現実かもしれない。
野茂英雄の現在の実力は正直わからない。おそらく全盛期と比べれば別人のような投手となっているかもしれない。
しかしここまで何度も復活してきた不死鳥のような野茂英雄だからこそ、まだまだ出来ると信じたいものだ。
そして日本からどんどん流出する才能を見ながら、誰もが日本球界の衰退を悲観する。
ボクは今回12年前の一連の「野茂騒動→NOMO FEVER」を改めて振り返り、このころから日本球界は、現実を見て見ぬふりをしてきているようにも感じた。ボクは1990年頃、アメリカのベースボールカードを集め始めた頃にメジャーリーグと出会ったが、そのころから比べれば日本のメジャーリーグは非常に身近な存在となった。95年を境に間違いなく時代・環境は変わった。
3年連続ワールドシリーズには日本人選手が出場し、今年はワールドシリーズで日本人対決が行なわれる。
日本球界にも素晴らしさがたくさんある!!だからこそ、今一度世界の野球界の現状と直視し、世界に誇る「野球」の新しい時代を切り開いていかなければならないのではないのだろうか。
実力・契約から日本に帰ってくるのではなく、メジャーリーグに挑戦したけれども、やっぱり日本球界が世界一だな!そんなことを言ってメジャーに引きとめられても帰ってくる選手が出てきてもイイんじゃないかなぁ!