といってわかる野球ファンは結構な野球マニアな方だと思います。
ハンク和田とは、アメリカのマイナーリーグ「サンノゼ・ビーズ(Sun Jose Bees)」への野球留学に引率していたコーチです。
ハンク和田と聞いてピンとこない方も、西鉄ライオンズ黄金期の捕手・和田博実選手と聞けばピンとくるのではないでしょうか。
1983年から1988年にかけて西武ライオンズは、出資するサンノゼ・ビーズに若手選手達を武者修行のように送り込んでいました。その引率役が和田博実氏でした。
その参加選手の顔ぶれを見ても、ソフトバンクホークス監督・秋山幸二や通算224勝・工藤公康をはじめ、デーブ大久保博元や田辺徳雄、笘篠誠治(笘篠兄)、安部理、鈴木健などなど、のちの西武ライオンズ黄金時代の中心選手を多数輩出しました。
ちなみに秋山幸二はドラフト外、工藤公康はドラフト6位とドラフト下位指名選手。
もしこの野球留学がなければ、彼らの活躍があったかはわかりません。
以前にも80年代アメリカ野球留学については書きましたが、ハンク和田は野球留学する西武ライオンズの若手選手たちを他のチームメイトと同じ待遇で扱いました。そこで彼らが学んだものはハングリー精神だったのではないでしょうか?
そういえばハンク和田同様に、野球留学先によくいる大物選手だったのが、1980年のナショナルリーグ新人王投手スティーブ・ハウ投手(ドジャース)。
若くしてドジャースの主力投手になったにも関わらず、コカイン中毒で何度も出場停止処分を受けていました。
先日のアレックス・ロドリゲス選手の薬物問題による処分のニュースの時に久々に彼の名前をききました。
その彼も80年代半ばにはなかなかメジャーリーグに定着することはできませんでした。
そんな時期に彼が所属していたのが、西武ライオンズの選手たちが野球留学をしていたサンノゼ・ビーズであったり、ダイエー・ホークスやヤクルト・スワローズからの野球留学が多かったサリナス・スパーズにも1990年代に所属していました。
サンノゼ・ビーズ時代の彼の月給はチーム最高の2000ドル(約20万円)
若くしてドジャースの主力投手となった早熟のストッパーながらも、薬物問題でメジャーリーグが遠ざかった時期。
それに対して野球留学をしていた選手たちは、これから日本のプロ野球での活躍を目指している若者たち。
果たして、そんな若者たちの目に映った元バリバリのメジャーリーガー、スティーブ・ハウがどのように見えたのかは気になるところであります。
そんなハウも2006年に交通事故で48歳の若さで他界。
今は亡きハウですが、80年代アメリカ野球留学を語る上で欠かすことのできない選手でした。
メジャーリーグが夢のまた夢だった80年代。近年では日本人プレイヤーも増えメジャーリーグが夢ではなくなってしまいました。
独立リーグへのアメリカ野球留学はそんな歴史の推移の中で忘れ去られています。しかし、アメリカ野球留学が多くの名選手を育ててきたことを関がれば、今一度アメリカ野球留学を見返してみるのもいいのでは・・・