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『勝者は決して諦めない』 〜 隻腕 ピート・グレイ 〜

冬季オリンピック(ソチ・オリンピック)が無事閉幕しました。
スポーツの感動はもちろんですが、勝負の恐ろしさもまた感じた2週間だったのではないでしょうか?

オリンピックは閉幕いたしましたが、まもなくソチ・パラリンピックが開幕します。
パラリンピックは言わずと知れた障害者を対象とした世界最高峰のスポーツ大会です。
1988年の夏季オリンピック・ソウルオリンピックからオリンピックと同都市での開催となったことで、オリンピックと同じく身近な大会になりました。


野球界にもハンデを抱えた選手は少なくありません。
2003年の夏の甲子園に出場した曽我健太選手(今治西高校)は義足を使いながらレギュラーとして活躍していました。
しかも彼は50mを6秒台で走っていて、こんなにすごい選手がいるのかと、どんなドラフト候補生なんかよりも彼に注目し応援していました。


アメリカ・大リーグでは、生まれつき手首より先がない隻腕投手のジム・アボット投手が有名ですが、実は彼はオリンピアン(オリンピック出場者)だったのです。

それどころかソウル・オリンピック野球決勝戦に登板し、対戦相手の日本を抑え見事アメリカチーム優勝に導いた金メダリストでもありました。
マイナー経験なしでメジャーリーグ・デビューを果たし、1993年9月4日にはノーヒット・ノーランを達成しました。
彼のグローブの使い方はアボット・スイッチと呼ばれ、数年前に東京大学野球部に所属していた加藤善之投手もアボット・スイッチを用いていました。



そのアボットからさかのぼること約半世紀。隻腕の外野手がメジャーリーグにはいました。



2002年の独立記念日の1週間ほどの間にメジャーリーグにとって偉業を残した人物の訃報を立て続けに聞くことになりました。


2002年7月4日、日本が誇るメジャーリーグ評論家・・・いやもはや評論家という枠を超えたパンチョ伊東(伊東一雄)氏が他界。
そして翌日7月5日には最後の4割打者・・・いや神と言った方がいいかもしれません。テッド・ウィリアムスが他界。
二方ともベースボールの世紀でもあった20世紀野球界の歴史において忘れることのできない人物でした。


そしてもう一人、右腕の付け根から先がない隻腕の外野手ピート・グレイが2002年6月30日に他界されました。




1915年、ペンシルベニア州の炭鉱町ナンティーコークに生まれたピート・グレイ。
リトアニア系移民の子供として生まれたピートですが、この時はピート・ワイシュナーという名前でした。(後述)

ピートが6歳の時、彼の人生にとって非常に大きな事件が起きます。

ピートの家の近くには鉄道駅があり蒸気機関車が走っていました。ある日グレイ少年は蒸気機関車に乗って遠くに行きたいという衝動に駆られ、駅を出た直後のスピードの出ていない蒸気機関車に飛び乗りました。
しかし列車から落ちてしまい、病院に運ばれます。一命はとりとめたものの右腕を付け根から失う大怪我をしてしまいました。



ある日、大リーガーになってヤンキースタジアムでプレーすることが夢だったピートは父親にこう言いました。



「片腕では野球はできない。大リーガーにもなれないし、ヤンキースタジアムでプレーすることもできない」



それに対して父親は



「やる気になればなんでもできる。あきらめるな」



と彼に言ったのです。



そこからピート・グレイの新たな野球人生は始まりました。




彼は草野球のグラウンドで一日中練習をしました。

バッティング時には右腕のない彼は通常より重く長いバットを使い、球威に負けないように工夫していました。

また守備の時には革が薄く小さいグローブを使っていました。これもグレイなりの工夫がされていて、左手でキャッチした後に左手で投げなければなりません。

その為、彼は捕球したら右の僅かに残った腕でグローブを挟み、外して左手でボールを投げていたのです。その時間を短くする為にそのようなグローブを使用していました。



そのような努力や工夫を重ね、グレイは25歳の時にマイナーリーグのチームに入団します。

1942年には打率.381を記録し、1943年にはさらに格上のチームで打率.299を記録。

1944年にはMVPに輝きました。



そして1945年、ピート・グレイは大リーグのセントルイス・ブラウンズに昇格し、ついに大リーガーとなりました。



77試合51安打6二塁打2三塁打0本塁打13打点5盗塁で打率.218の成績を残しました。



その後、グレイはマイナーリーグでプレーを続け1949年に現役を引退。



引退後、奇跡の男と呼ばれたグレイの存在は時代とともに風化し、酒やギャンブルにおぼれてしまいます。



しかし


1986年にテレビで『A winner never quits』(邦題:片腕のヒーロー、大リーグへの道)という映画が放送され、
1995年には彼の伝記も発行され半世紀の時を経て、再びピート・グレイは奇跡の男としてなりました。


2002年6月30日に87歳の生涯を閉じました。



【勝者は常にあきらめない】



確かに第二次世界大戦中でメジャーリーガーも戦争に行っていた1945年でなければグレイがメジャーリーガーになることはなかっただろうという意見の人もいます。

しかし、勝利への執拗なまでの執念は時として時代をも味方にすることをグレイのエピソードからそう感じました。




【勝者は常にあきらめない】
グレイのこの言葉を、ソチオリンピックに出場した41歳の銀メダリスト・葛西紀明選手のコメントを聴いて思い出しました。
ソチ・オリンピックが閉幕し、まもなくパラリンピックが始まります。
また寝不足の日々になりそうですが、一生懸命プレーする姿をTVを通じて一生懸命応援したいと思います。





↑ピート・グレイ宛てに発行された小切手。裏書にピート・グレイのサインがしっかり書かれています。




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