世田谷草野球ロスヒターノス・ブログ

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道徳教育は・・・

 思えば2年半前、ボクが中学野球のコーチをやってた時に入学してきた最後の1年生が今日の試合で引退試合を行った。

コーチを退き1年半、常に彼らのことが気になっていた。ひとりひとりが楽しく学校生活を送り、そして楽しく野球をやっているかと!

ボクも仕事がある為、学生時代の時のように頻繁に顔を出すことは出来なかったが時間があれば必ず見に行くようにはしていた。

また見に行くことにより、ボクも慌しい心から、なんだか心が優しくなるような感じがしていた。

 やはり野球をやっている子供たちをボクは本当に大好きだし、多少妖しいかもしれないが(!?)、野球をやっている知らない子にも声をよく掛ける。

純粋に野球を興じる子供たちの姿は、野球人の原点であり永遠の目標であると思う。

だから、ある意味でボクの師匠なのかもしれない!w

 最近は知らない子に声を掛けると怪しいヒト扱いされてしまうが、ボクは怪しいヒトと思われてもやっぱり声を掛けることは大事なんじゃないかなと思う!

近所の公園の隅っこで筋トレとかしてる時に、ヒトが一杯いるのにバッティングを始めるような子には必ず注意するし。 

 やっぱり長く楽しくボクは野球を続けてほしい。

ボクは別に偉そうな事を言える野球人じゃないけれど、野球に学んだことがたくさんあると思うし、さらに「野球があったから・・・」という事だけで人生が形成されてしまうかもしれない。

 ちょっと、話は変わるが最近道徳に関してTVで論議されている。

正直この問題に関しては現場で真剣に生徒と向き合っている教育者でなければ、解決することの出来ない問題だと思う。

なぜなら日本にはこれといった道徳はすでに存在しておらず、多くの大人も道徳の見本になっていないからだ。

 新渡戸稲造の著書「武士道」の序文にベルギーの法学者・故ラブレー氏の家で数日過ごした時のある会話について記されている。

ラブレーが「あなたがたの学校では宗教教育というものが、とおっしゃるのですか」と尋ねた。

「ありません」と新渡戸が答えれば、ラブレーは「宗教がないとは。いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と問われた。

新渡戸は即答できなかった。なぜなら新渡戸が幼い頃に学んだ倫たる教訓は学校でうけたものでなかったからだ。そして善悪の観念をつくりださせた様々な要素を分析してみるとそのような観念をふきこんだものは武士道であったことに思い当たったそうだ。・・・・・・・・・・・・・

 ボクに善悪の観念をつくりださせたのは、宗教ではなく「野球」という存在でありボクの中には常に文武両道というアマチュアイズムも同時に存在していたと思う。

どのチームメイトやチームに対して自分が出来ることをやり、そして自分もより成長できるように野球に取り組んできた。

 日本では宗教に対して軽蔑視することが少なからず存在すると思うが、そもそも宗教とは願いを叶えるものでもなく誰かを幸せにする為でもなく、ボクは道徳教育の一環として世界各国に根付いているものだと考えている。

 それと同時にボクはその道徳教育には決して宗教のみならず、「何か」が道徳教育に必要になるのではないかと思う。

「道徳」を使い「道徳教育」は出来ないのではないだろうか?

例えば子供の頃に親に読んでもらった童話の多くには道徳的な要素は含まれている。

 昨今では戦後教育の是非も問われているが、ボクは日本にはかつて道徳は存在したと思っている。

年始の挨拶や年賀状から始まり大晦日に終わる日本の行事の中で、年始の挨拶や年賀状も徐々になくなってきていて、大晦日も格闘技デーのように変わってきた。

そしてそれ以外の行事も国民の休日になって終わってしまっている。子供の憧れだった鯉のぼりも今ではほとんど見なくなった。(←私の父は未だに設置する!w)

 農耕民族だった日本には、常に春夏秋冬そして年中行事が生活と隣りあわせだった。

 先日TVでやっていたが、長崎に浮かぶ端島という炭鉱の島では、当時ほとんど犯罪は起きなかったそうだ。それは高度経済成長の日本を自分たちが支えているという自負心があったからだという。

 昭和の名刑事・平塚八兵衛が唯一解決出来なかった筋書きのない事件「3億円事件」はなぜ解決できなかったのか?それは筋書きや背景がない突発的なモノだったからだと思う。死刑囚・小原保と平塚八兵衛のやり取りを見ているとそのような感じがした。

 ある意味で「プロセス(過程)」こそが、道徳教育なのかとも最近はちょっと思っている。

あの王貞治だってプロ入1年目は、「王は王でも三振王」と野次られた程、三振の多い選手であったがその過程があったからこそ、結果に結びつき誰からも慕われる人格者になったのだ。

 ながながずらずらとただ思いのままに書いてきたが、結論としてボクは今のこの時代は「便利」な時代だと思う。

自分の都合の良いことを「便利」に行うことが出来るのと共に、自分に不都合のことからは「便利」に逃げられるからだ。

面と向かって啖呵をきり相手の顔を見ずにメールで謝り解決しようとしたり、叱られると第三者に自分は悪くないと言って逃げ続けたり。

 ヒトが2人集まれば、都合のイイことよりも都合の悪いことのほうが多いかもしれない。

それは、全く同じ考えを持つ人間が2人と存在しないからだ。

 そんな中でいかに自分が「見てみぬふり」するか、そして「いかに困難から回避」するかが強い時代になってきていると思う。

「YesかNo」「勝ちか負け」、多分今の子供たちの頭の中に必ず叩き込まれている両極端なキーワードだ。

 真ん中がなければ、決して道徳は存在しない。真ん中に近づくことが妥協点であるからだ。

やはり「便利」な時代は、道徳教育の中ではあまり「便利」でないのかと思う。

大人が卑屈な時代にゃ、子供も卑屈になってしまう。子供は大人の生き写し、子供の問題に大人が真剣に取り組まなければならないのだろう。