1941年(昭和16年)の全国中等学校野球大会は戦時下で県をまたいでの移動が禁止された為、地区大会のみとなってしまい行われなかった。
翌42年(昭和17年)は朝日新聞が主催ではなく、文部省と大日本学徒体育振興会主催「大日本学徒体育振興大会 中学野球部門」で【全国中等学校錬成野球大会】として行われた。
球場も例年通り甲子園球場で行われたが、毎年行われている朝日新聞主催とは別物であった為、公式な記録としては扱われていないことから【幻の甲子園】と呼ばれている。




文部省とともに日本軍もかかわっていたこともあり、軍事色の強い大会だった。
スコアボードには「勝って兜の緒を締めよ 戦い抜こう大東亜戦」。
ユニフォームのロゴは漢字のみを使いローマ字は禁止。
試合時、サイレンは鳴らされず、進軍ラッパ。
勝利校の校歌斉唱は自粛。
試合内も
「打者は球をよけてはいけない。球に当たっても死球にならない」
「原則として1チームあたりの選手数は9人とし、選手交代ならびに控え選手の起用は負傷の場合を除いて原則禁止する」
という特別ルールが採用。
柴田良三(滝川中)
阪田清春(滝川中)
田端美夫(滝川中)