朝起きて、、、寝て、、、昼起きて、、、寝て、、、夕方起きて・・・今に至ります。
さて1949年プロ野球シーズン終了後、当時1リーグだったプロ野球界はセントラル・リーグとパシフィック・リーグの2リーグ制へと移行しました。
それと同時に誕生した球団が近鉄バファローズの前身・近鉄パールズでした。
近鉄沿線の鳥羽湾の名産・真珠からパールズという名前でスタートした近鉄球団は法政大学の監督だった藤田省三氏を初代監督へ向かえその教え子で東京六大学の大投手・関根潤三投手らも同時にプロ入りしました。近鉄は藤田省三監督をはじめチームの約半分が法政大学出身だったのです。
日本プロ野球唯一のシーズンを100敗を屈したこともある弱小チーム近鉄が球団創設から30年後の1979年に西本幸雄監督のもと初のリーグ優勝するものの、日本シリーズ第七戦、逆転優勝寸前で「江夏の21球」により初の日本一を逃します。
翌年もリーグ優勝するものの日本シリーズは敗退。
その後、88年にはあまりにも有名すぎる10・19決戦(近鉄vsロッテ川崎球場でのダブルヘッダー)で2戦目ロッテ有藤監督の抗議が長引き、時間切れ引き分け。
翌89年にリーグ優勝し、日本シリーズ3連勝するも、あまりにも有名な「巨人はロッテより弱い」発言(加藤哲郎投手)で巨人の怒りに火をつけ、4連敗しまたもや日本一を逃しました。
01年もローズ・中村紀を率いるいてまえ打線でリーグ優勝するも、4度目の日本シリーズも勝つことができず、日本一になったことがなかった唯一の球団「近鉄バファローズ」は04年オフにオリックスと合併して事実上消滅しました。
そして昨日、合併後からも入り続けたオリックス・バファローズのユニフォーム袖の「近鉄」の広告は「イーモバイル」へと変わり、日本野球界から「近鉄」という名前は消えました。
近鉄ファン以外誰もが消えたと思っていた「近鉄」という名前がが合併から3年間の広告契約期間を終えて自然消滅しました。
近鉄本社はホームページの会社案内で『価値ある文化の創造。社会とのきずなを何よりも大切に。』